生と死、自然な流れ。ありのままに。

死への恐怖

 

死は怖い。怖い・・・?何が怖いんだろうか。痛み・・・ではない気がする。

僕が考える恐怖、それは愛する家族と離れる事。我が子の今後を見れない無念さ。我が子と一緒にいたい気持ち。妻と一緒にいたい気持ち。もっともっと、愛する家族と色々な楽しい思い出を作って生きたかった事。そういう未来を見ていたい「感情」が怖さを作っている。つまり、「死」自体が怖いわけじゃないのかもしれない。

 

死ぬという事が分かったうえでの「生」で感じる感情が怖いのだ。

 

誰しも生まれたときから「死」という誰にも平等な判決がある。絶対的に決められている事。それは誰にも変えられない判決であって、その執行がいつになるかなんて誰にも分からない。ただ、「判決」という表現を使うと罪が着せられているように感じてしまうのが言葉のマジックだよね。だから、その絶対的な「死」は「運命」という言葉で表現された。「運命」と表現していいのはこの先にある「死」だけ。ただ、いつかは分からない。いつか死ぬ、それだけ。

 

僕らは、「死」を意識しながら「生」にしがみつく。「生」にしがみつくのは「恐怖」があるから。その「恐怖」が襲ってくるのは「未来」に楽しみがあるから。あと30年経って、我が子が自立して成長して、自分の役目も終えられたかなと思った時には「恐怖」がなくなっているのかなとも思う。でも、いまはまだ死ぬのが怖い。それはどう考えても変わらない。

死ぬことがどうしても怖い。だから、死んだあとの「未来」はどういったものがあるのかを考えてみた。宗教?死後の世界?天国と地獄?意識だけの回遊?スピリチュアル?など、そのあたりのことは僕は全く信じていない、物理的に考えることができない事象はあまり信じることができない。どうなんだろう。本気で死後の「未来」があるのだろうか。死後に未来があるとしたら、現世での話だよね、遺産相続とかそういうの。

宇宙に存在する僕らは、草木や動物含め全てが物理であって、なにも「生」が絶対ではない。僕らはこの宇宙、もしからしたら宇宙よりもっと広い「何か」の中にある一瞬の瞬き、チリのような存在なのかもしれない。僕らは物理であって、魂という「実体」などはないのである。

輪廻転生という事象があるのは知ってる。よくテレビなんかのメディアで紹介されているが、知らない土地や、転生前の出来事や家族の事を覚えている事象にはびっくりする。ほぼ100%がやらせだとは思ってるけど。万が一本当だとしても、何故そのような輪廻転生と捉える事ができる事象が起こりえるのか分からないけど、僕は世に認知されているような「魂の転生」ではないように思う。過去の記憶が本当にあったとしても、その新しい「生」はまた別な「生」であって、転生前の「生」とは違うんじゃないかな。言いたいことがよく分からないな。

 

命あるものは命を繋いでいる。僕も、妻と一緒に我が子へ命を繋いだ。それは言葉にできないくらい素晴らしいことだというのは、今の僕には分かる。子供の未来をよりよいものになるように願ってやまない。子供へ向ける「愛」という感情以上に「生きている意味」を感じたことはない。

だから、命あるものは命を繋ぐために「死への恐怖」があるんじゃないかなと思ってる。死ぬことを恐怖と思わなければ、僕ら生物は繁栄していけないから、「死への恐怖」は当たり前の感覚なんだろう。

 

 


死ぬこと

 

前述でスピリチュアル的なことは一切信じていないと言ったけど、スピリチュアルのように例えたりすることは嫌いではない。例えば、「死」は「光」という考えかたが好きだったりする。「無」という表現を何色で思い浮かべるだろうか。大抵の人が「黒」という色を思い浮かべるのではないだろうか。でも、実際「白」であると思う。「黒」と思い浮かべるのは恐怖が濃い証拠なんだろうなと思う。「白」と考えると恐怖が和らぐ気がしないでもない。

 

「死」は黒ではなく「白」で、闇ではなく「光」なのかもしれない。

 

結局僕らは、どれだけ「死」が怖くても、いつ「死」が訪れていもいいように、「死」を待ち受けるのだ。僕らは、「死ぬ」ために生まれてきた。そういう「運命」であり、命の螺旋。この考えこそスピリチュアルのように感じられるが、これは変えられようのない未来で、一般的にもそれを「運命」と呼ぶんだろう。過去の人、避けられようのない未来の出来事を「運命」という言葉に置き換えたのはセンスがいいと思う。

 

「死ぬこと」とは。

身体が動かなくなること、自分の存在がなくなること、意識がなくなること、またはそうなる直前を恐れること。

 

 


死ぬ運命に感謝

 

色々と死ぬことに関して述べてきたけど、「運命」には「感謝」がたくさんあることも知っている。「生」ある現在の物事は、誰でも嫌なことや上手くいかないことをクローズアップしがちだ。それでも、確かな「生」の喜びって日常のあちらこちらに散らばっているというのを、一度「死」を意識した後から心底感じれるようになった。

死を待つことが「運命」ではるが、その「運命」の中に感じることのできる幸せに「感謝」していこうと思う。

 

僕の「感謝」は家族との出会いと日常。

運命で愛する妻と出会わせてくれてありがとう。

運命で愛する我が子と出会わせてくれてありがとう。

運命で愛しい時間を作ってくれて本当にありがとう。

 

 


今は生きている

 

僕は一時期ではあったが死ぬことを意識させられたことがある。死ぬんだなって思った。もう残された時間無いかもしれないと思った。けど、僕はまだ生きている。そして、死ぬまでの時間がまだ少し長いことが分かった。同時に、僕はこの先どうやって死ぬのか分からなくなった訳だが。

 

僕は今も生きている。

 

この先も家族と生きていられる。妻と一緒にいれる、子供の傍にいれる。「死」を意識させられた事によって「生」の感覚が磨かれた。生きていることだけで幸せを感じれることが分かった、何もない平穏な日常がとても幸せなのが分かった。身体の感覚を作っているのは脳だということが分かった。わりと人間の体って丈夫なんだということが分かった。食事がとても美味しいことが分かった。世界は自分中心では無かった。死はいつも身近で、生ある全てが死ぬことが分かった。この先に死ぬ運命があることが分かった。

生きれるなら仕事は何でもいいやと思えた。生きれるならお金なくたっていいと思えた。生きれるならゲームのガチャ運が悪くてもいいやと思えた。生きれるなら髪の毛がなくなったっていいと思えた。生きれるならコーヒーなど飲まなくていいと思えた。生きれるならお酒も飲まなくていいと思えた。生きれるならどれだけ馬鹿にされてもいいと思えた。

 

死ぬこと以外は何でもない。

それが分かった。